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天上の愛


『愛無くして生きる価値なく、愛無くして活きる力なし』

社会的に認められ、何不自由なく生活出来ていても愛は必要です。
満たされて愛おしい人に愛されていて尚、更なる愛を求める心があります。
欲望というよりも愛に対する渇望と言った感覚でしょうか。

善人の行く先は天国と言われています。未だかつて天国に行って帰って来た者がいないので嘘か誠か判りません。
天国で善人は何をするのでしょうか。
生き方が善人であれば天国でも善人のままでしょう。悪人にいきなり変わったり、自分勝手になったりはしないでしょう。

善人の愛は天上の愛でしょう。
優しく蕩けるほんわかした愛でしょう。
ちくちくと鈍い痛みなどない日だまりのような愛でしょう。
愛を愛で返せる人が善人ではありません。悪意すら愛で応えられる人が善人でしょう。
愛の弾力のある力で常にいられるから悪意を吸収変換できるのです。

千人いても善人。
万人いても善人。

善人の愛は天上の愛です。
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2012/01/30 (Mon) 20:15 |恋愛および愛 |トラックバック(0) |コメント(0)

愛らしさの公式


『愛無くして生きる価値なく、愛無くして活きる力なし』

可愛がられるには可愛がられるだけの理由があります。可愛いと思える何かがある訳です。
可愛いかそうでないかは人によって価値観が異なるからまた違って来ますが、大同小異おおよそ共通の部分もあるのです。
鼻でかの子犬や子猫のカレンダーやポスターが作られ売られるには説明のいらない可愛らしさがあるからでしょう。

愛らしいというのは愛される為に必要な要素です。

何が愛らしいのかキーワードがあります。それは大人が無くした、隠していると思っている事柄です。

『純粋、無垢、ひたむき、無頓着』

こういったものを表した写真、ポスター、絵画などを愛らしいと感じるのです。
動物の赤ちゃん=無垢=愛らしい

天使=純粋=愛らしい

遊び呆ける子供=無頓着=愛らしい

というふうに『愛らしさの公式』があるのです。

大人でも『純粋、無垢、ひたむき、無頓着』を意図的に演出する事があります。そうです"ぶりっ子"と呼ばれる演出の事です。余りにもあざといと鼻に付きますが、好意を持たれている相手には効果は大きいのです。また、全く見ず知らずの相手に"好感"という第一印象を与えるには有効な演出です。

ただし、男性は使わない方が無難です(笑)。
2012/01/28 (Sat) 18:29 |恋愛および愛 |トラックバック(0) |コメント(0)

束縛する愛


『愛無くして生きる価値なく、愛無くして活きる力なし』

愛してるから自分だけを見ていて欲しいと誰もが望みます。
愛してるから自由にしていて欲しいけど余りにも自由にされるとヤキモチ妬いてしまい、束縛したくなります。
ヤキモチなんて妬きたく無いけど愛してるから仕方ないと思う。
でも、ヤキモチなんて妬かれたく無いと思う。だって煩わしいしうざいからです。だからといって全然妬かれないと愛してくれていないような気分になります。

ヤキモチは嫉妬という感情から起きます。嫉妬の多くは自己所有という誤解から生まれます。自己は"私がいる"という錯覚から生まれます。私は"仮もの"です。実態のない概念でしか在りませんし、日々移ろい変化するものです。そんな私は所有など出来ません。物でなく者である他者を所有という制限の拘束を掛ける事など出来よう筈もありません。出来ない事をしようとする・・・・自我の陥る罠です。これを悪業とも言います。

ヤキモチなんて妬くのは愚かしい行為です。止められないのは何か誤った考えを持っている証拠です。愛している証拠ではありません。
2012/01/26 (Thu) 10:21 |はじめに |トラックバック(0) |コメント(0)

愛と無知


『愛無くして生きる価値なく、愛無くして活きる力なし』


『愛について無知である事を知らない』

愛を好きの最上級程度にしか知らないのに愛を知っている積もりになっているのが大抵でしょう。
愛とは何かを知る人はいません。愛を感じる人は愛を知りたがる必要はありません。
幼児に対する愛を自然に持てる人はそこから愛を推測するでしょう。
好きな人に愛を感じる人は愛に疑問を感じ、本当に愛しているのだろうかと自問自答する事もあるでしょう。

愛とは何か、人は直接説明出来ません。行為から形容するだけです。
優しい愛、いたわりの愛、寛容の愛、親切な愛・・・・
愛はこれら総てを含んでなお拡がりがあります。

好きの最上級というのは愛の一側面でしかなくむしろ始まりの入口と言って良いかも知れません。
愛を定義すれどそれは愛の一部を言っているだけです。

愛は執着の一つで煩悩でしか無い、慈愛という個人を離れた愛を愛とすべし。
誰かという個人に向けられた愛が執着に簡単に変わるのは自我に捕われてしまうからです。自分中心の愛は執着を生むという事です。他人中心の愛が愛らしいという事です。
自分を愛するという事は自分の欲望を際限なく許す事ではありません。自分を愛するという事は自分を中心に考える事ではありません。自我から離れる事が出来なければどんなに崇高な言葉で塗り固められた愛でも愛の道からたやすく滑り落ちる事でしょう。愛の道は一本のロープ程細く、自我という強風が吹き荒れているのです。

愛とは何か誰もが納得出来る言葉で愛の全てを説明出来ないものなのかも知れませんが、余りにも人々は愛に無知です。人々は愛に無頓着に生きています。まるで愛を知ろうとすれば愛だけに生きなければならなくなり、生きて行けないと思い込んでいるかのようです。

愛を知るには愛を歪ませる自我を知ること、自我を知るには心とは何か知ることが必然です。
2012/01/24 (Tue) 06:39 |はじめに |トラックバック(0) |コメント(0)

愛の抱擁


『愛無くして生きる価値なく、愛無くして活きる力なし』

抱擁は愛の行為です。
抱擁することで愛が交わされます。

人の体からはオーラというものが出ていると言います。オーラは体磁気とも霊気とも言われています。

抱擁をすることでオーラが混じり合い愛を伝えられるのです。

オーラの色で体調や性格が判ると言います。
オーラの発生源が肉体的なもので無く魂とか霊と言われています。では何故オーラがあったり、見えたりするのでしょう。
オーラは魂から立ち上る湯気のようなものと思われていますが違います。オーラは電磁波です。詰まり光です。
霊視でしかオーラは見えないように思われていますが違います。とても微弱な光なため皮膚から数㎝しか届きません。そのため普段は目にする事が出来ないのです。目視するためには暗闇の中で皮膚に近づいて観ることです。
オーラは皮膚の発光現象なのです。皮膚の状態が判る電磁波ですから健康状態も判るのです。皮膚の状態で性格が判るかどうかは知りませんが、その時の感情は判るでしょう。感情が皮膚の活動に影響を与える事は充分ありえます。

愛のエネルギーは人間の活動エネルギーそのものですから皮膚に影響を与えるのは必然です。だから、愛の状態がオーラとして顕れることも必然と言えるでしょう。
だから、抱擁でオーラが混じり合うという事は愛が混じり合うとも言えるのです。
2012/01/22 (Sun) 14:12 |はじめに |トラックバック(0) |コメント(0)

愛の呪(まじない)


『愛無くして生きる価値なく、愛無くして活きる力なし』

呪(まじない)の基本は"見立て"です。相似、類似、合同の考えと想い、念いの考えが基本です。

白魔法、黒魔法と呼ばれる少し軽めでリスクなく出来ると思われている魔法があります。少女雑誌のカラーページなどでネックレスやブレスレットなどを販売して、身につけると幸運が舞い込む、愛する人と出会えると喧伝されていたりします。これも呪の一種です。

呪いの藁人形などの都市伝説は憎い相手を模(かたど)った藁人形に体毛などの相手の一部を埋め込んで、藁人形に三寸釘を丑三つ時に呪いの言葉を吐きながら打ち込むというものです。まさに藁人形が憎い相手の類似ですね。呪いの言葉が"念い"に当たる訳です。

呪(まじない)の基本には"見立てたものは繋がりがある"という考えがあります。
類似は細かくは違っても姿形が似ていると繋がっているという考えです。相似は大きさが異なるけど同じものという考えです。合同は姿形が同じものは同じものという考えです。
これは発想がアニミズムそのものでしょう。片方の影響がもう一方にも現出するのです。

その繋がりを強化するのは"想い"です。目的という方向性を与えられた想いが"念い"です。
人の意識は"見詰めたものを拡大"し、"見詰めたものにエネルギーを与え"ます。このエネルギーが呪に力を与えるのです。詰まり"見立て"の完成です。

愛の力は人の意識を必要としません。毟(むし)ろ意識の力は愛のエネルギーを偏向させています。邪魔をすると言っても良いかも知れません。だから愛に呪(まじない)は向かないのです。巷に蔓延する愛のおまじないは効果は少ないのです。

呪(まじない)は掛けた相手の意識を束縛します。念いが"想いのベクトル"だから意識に干渉出来るのです。相手の愛の意識を念いで縛る事になるのです。そういう意味では愛の呪(まじない)があるという事も言えます。

愛の呪(まじない)を上手く成立させるにはコツがあります。呪(まじない)が伝わりやすい正しい見立てを決める事です。相似したより繋がり見立てを決める事です。はっきりと相手を決める事です。想いを具体的に書き出す事です。より強い念いにするために見立てに宣言を繰り返す事です。
2012/01/20 (Fri) 22:19 |はじめに |トラックバック(0) |コメント(0)

浄化愛


『愛無くして生きる価値なく、愛無くして活きる力なし』

涙には理由があります。

心が揺れ動くから涙になるのです。

寂しさに心が押し潰されて涙になります。
辛さに心が締め付けられて涙になります。
感動に心が揺らされて涙になります。
嬉しさに心が躍らされて涙になります。

涙もろいのは歳のせいではありません。
涙もろいのは心の機敏が判るようになったからです。
心の襞(ひだ)が増えて他の人の心に敏感になったからです。心が柔らかくなって他の人の心を思いやれるようになったからです。

涙もろいのを恥ずかしがる必要はありません。
涙は心から"けがれ"を洗い流してくれる浄化の愛の顕れです。
涙した後に心が晴れやかになるのは"けがれ"が心から消えたからです。

"けがれ"はよこしまな想いです。知らず知らずに心に張り付いた悪しき想いです。"嫉妬""嫉み""傲慢"の種です。

心が汚染されないように防護してくれている愛なのです。
心が間違わないように道を示してくれている愛なのです。

涙は寂しさ、辛さ、感動、嬉しさを感じる心を取り戻させてくれている愛なのです。
2012/01/18 (Wed) 06:49 |恋愛および愛 |トラックバック(0) |コメント(0)

愛と呼ばないで


『愛無くして生きる価値なく、愛無くして活きる力なし』

無慈悲な行為を正当化する人は自分が正しいと考えています。自己中であっても自分を愛している訳では無いのです。

自分を守ろうとする行為は自我から来ています。

自我には愛はありません。

正確に言うと自我には愛を認識する能力が無いのです。見た目には愛が分かっていて尤もらしい事は言えますが愛をきちんと定義出来ないのです。

疑うならやってみてください。
愛とは何ですか?
"優しさ"という答えは正しく愛を定義していません。愛の一側面を表現しているだけです。しかも形容しているだけで愛のなんたるかを定義出来てはいないのです。

でも私達は愛を心で感じます。

でも私達は愛を自我で考えてしまいます。

だから、考えた愛は愛と呼ばないで下さい。
でも、心で感じる愛は愛と言って下さい。

自己中の自我は自分の(考えた)愛を正しい愛と思っています。その(考えた)愛で判断し、他人の愛を裁きます。
厳しくするのが愛と思っている人に優しくするのが愛と思っている人は賛同しません。

だから誰も自分の知っている愛を愛と呼んで欲しくありません。
せめて"愛のカケラ"でしょうか。
2012/01/16 (Mon) 19:45 |恋愛および愛 |トラックバック(0) |コメント(0)

人それぞれの愛


『愛無くして生きる価値なく、愛無くして活きる力なし』


人を決めているのはその人の持っている価値観です。何に価値を決めているかで人の人格まで変わって来るのです。

でも、愛は誰もが同じ価値を認めています。
ただ、愛の表し方だけが違います。

それは価値観が違うからです。価値観で愛をどう表現するか決めているのです。
お金が一番の価値であると考える人は愛すらお金に換算します。愛をお金で表現します。高価なプレゼントをあげる事は大きな愛を捧げるのと同じ事なのです。だから、高価な物をプレゼントされないと愛されていないと考えてしまいます。
努力が一番の価値であると考える人は他の人が考えられないほど努力をしたがります。自分が何とかすることが愛であると考えているのです。努力しない人は愛のない人であり、努力出来ないのは愛そうとしていない人であると考えてしまいます。

優しさ、いたわり、親切、寛容・・・・どんな事に価値を置くかに優劣がありません。
いぢわる、邪魔、からかい、無視・・・・どんな事に価値を見出だすかに優劣はありません。

愛は様々な表現出来るものなのです。

そして、価値観を体言した人になります。

他の人からどんな風に見られたいかを決めるには価値観を変えれば良いのです。
2012/01/14 (Sat) 13:41 |恋愛および愛 |トラックバック(0) |コメント(0)

愛と自我


『愛無くして生きる価値なく、愛無くして活きる力なし』


愛については沢山の人達が考え、本に書き、話して来た事です。

愛が生まれる場所は心の中にあるように思えます。

他人の"優しさ""いたわり""親切心"等に触れて感謝した時に湧いて来るからです。心の深い所から来て、深ければ深いほど愛は濃くなるからです。

愛は無限に湧いて来るように思えます。これで終わりという感覚が無いからです。
欲望や愛に対する飢えが無限に思えるのと同じ感覚です。

何故無限に湧いて来れるのでしょうか。
心が無辺なのと何か関係があるのでしょうか。

心は無辺というよりも個々に別ではありません。自我が別々の心を持っているという錯覚を生み出しているだけなのです。

心は愛の濃淡で彩られています。深いほどに濃く、強くなって行きます。そして濃淡は混じり合っています。

自我の錯覚とは"自我が心の一部を自分の心の領域として切り取っていること"です。

愛を求める自我は心の中を深く潜りたがりますが愛が濃くなればなるほど自我は進めません。
自我が自己に向かう愛であるように心の奥深くの愛も奥深くに向かうものです。お互いに相容れない方向、傾斜があるのです。

だから人は深い愛を持ちにくいのです。より深く濃い愛を手に入れるには自我を手放すか自我の力を弱めるより他にありません。

心の内にある愛と自我は相反するのです。
2012/01/12 (Thu) 10:53 |恋愛および愛 |トラックバック(0) |コメント(0)

愛は信、信は愛


『愛無くして生きる価値なく、愛無くして活きる力なし』


信頼の証とは愛の深さです。どれだけ深い愛を示せるかで信頼を証明出来るのです。

愛の示し方とは愛の表現のし方と同じ事です。
どんな形で愛を表すかは人それぞれです。

優しさで愛を表現するならどこまで優しくするかという事です。優しさは甘えとは違います。甘えは人を堕落させますが優しさは人に力を与えます。

いたわりで愛を表現するならどういう風に労るかという事です。肉体をいたわるならデトックスしてあげるとかリラックスさせてあげるという事です。

親切心で愛を表現するなら何をしてあげて愛を表すかという事です。転ばぬ先の杖のように支えてあげながらでしゃばらない事が必要です。

表現する方法は人それぞれ違って良いのです。

愛の深さとは相手の気持ちを斟酌する以上に愛された後に相手の気持ちが変化する事まで見透かして愛する事です。もちろん相手に不快感を与えてはNGです。愛が真正ならば相手を不快にすることなどありえません。

深く愛を与えれば与えるほど信頼は深くなります。
愛を与える人にすべてを委ねられるほどに信頼は厚くなります。

人と人とのリレーション(関係性)とは信頼に基づく結び付きの強さですから、愛に深い人ほどリレーションが多いのです。
また、愛に深い人は安心感を相手に与えより容易にリレーションを生み出して行ける訳です。

信は愛です。
そして、信は愛を増幅させるのです。
2012/01/10 (Tue) 17:33 |恋愛および愛 |トラックバック(0) |コメント(0)

一菜一汁の愛


『愛無くして生きる価値なく、愛無くして活きる力なし』


ビューティコロシアムというテレビ番組を見ていて、日本は幸せな国なんだなとつくづく思いました。

痩せるためにダイエット食品を食べるのですが、偉い学者がそのダイエット方法を説明します。
おデブ芸能人がチャレンジするのが売り物です。

おデブ芸能人はちゃんと先生の言うことを聞かないでこっそり食べたり、プレゼンターの別の芸能人に脅されたり透かされたりして体重と体脂肪を落とし、和田アキ子の判定を受ける訳です。

テレビですから演出という名前のヤラセはあり、見え見えではあっても楽しませようとはしています。
でも、ダイエットを本気ではしていません。

本気でダイエットするなら一菜一汁で行くべきでしょう。移動ツールは自転車にしたら良いのです。

体か欲しがる栄養はありますが絞り込むには不足くらいの状態が良いのです。
愛を持ってダイエットはしないと成功しないでしょう。

一菜一汁のダイエットは自分の心と体を愛で変える行為でもあるのです。
2012/01/08 (Sun) 08:46 |恋愛および愛 |トラックバック(0) |コメント(0)

心に愛を


『愛無くして生きる価値なく、愛無くして活きる力なし』


心に太陽を持てれば明るく過ごせます。
心に太陽を持てれば楽しく過ごせます。
心に太陽を持てれば嬉しく過ごせます。
心に太陽を持てれば元気に過ごせます。
心に太陽を持てれば力強く過ごせます。

心に太陽を持てれば不屈に生きられます。
心に太陽を持てれば寛大に生きられます。
心に太陽を持てれば優しく生きられます。
心に太陽を持てれば親切に生きられます。

心に太陽を持っていれば愛を持っているのと同じ事です。
愛は持っていなくても持っている振りをするだけで心に太陽を持つ事が出来るようになります。

嫌でも心に太陽を持っている振りをするだけで愛を持つ事が出来るようになります。

太陽のように
明るく楽しく嬉しく元気に力強く過ごしましょう。

太陽のように
不屈に寛大に優しく親切に生きましょう。
2012/01/06 (Fri) 09:01 |恋愛および愛 |トラックバック(0) |コメント(0)

悪妻の愛


『愛無くして生きる価値なく、愛無くして活きる力なし』


ソクラテスの妻は悪妻だったと言う。
名前を"クサンティッペ"と言います。
Wikipediaによると
『クサンティッペを悪妻とするエピソードには、以下のようなものがある。
ある時クサンティッペはソクラテスに対して激しくまくしたて、彼が動じないので水を頭から浴びせた。ソクラテスは平然と「雷の後は雨はつきものだ」と語った。
ソクラテスが語ったとされる言葉にこのようなものがある。「セミは幸せだ。なぜなら物を言わない妻がいるから」
ソクラテスが語ったとされる言葉にこのようなものがある。「ぜひ結婚しなさい。よい妻を持てば幸せになれる。悪い妻を持てば私のように哲学者になれる」
「そんなにひどい妻なら別れたらいいじゃないか」と言った人に対し、ソクラテスが語ったとされる言葉にこのようなものがある。「この人とうまくやっていけるようなら、他の誰とでもうまくやっていけるだろうからね」』

余りにも出来過ぎた話ですが、事実二人は離婚していません。しかも息子ランプロクレスを得ています。
二人の間の愛はどんなものだったのでしょうか。
しかも、ソクラテスにはもう一人妻ミュルトーがいて息子ソーフロニスコスとメネクセノスが居たのです。
ソクラテスは妻と呼ばれる女性と上手く付き合っていたということなのです。
ソクラテスが哲学や思想を家族や友人に語り、その考えが妻達にもきちんと伝わっていたのでは無いでしょうか。
妻達は真理を理解し生活に落とし込んでいたのではないかと思うのです。
それに対してソクラテスは実生活で妻達の要求に応えられなかったのでは無いでしょうか。

ソクラテスは細々した実生活で妻達の望みには応えられなかったから"悪妻"と言われながらも愛は貫き通せたのではないかと思うのです。
言わばソクラテスの愛は"寛大"な心。愛故に妻達の行動を許し、自分の実生活の不明を許していたのではないかと思うのです。ソクラテスが妻達にべた惚れしていたと言っても良いかと思います。
一方妻達の愛はどうだったのでしょうか。
真理を話すソクラテスを尊敬していたでしょう。実生活にだらし無かったソクラテスに呆れていたでしょう。だから、ソクラテスの妻達の愛は子供に対する"慈愛"のような愛だったのでは無いでしょうか。

悪妻と呼ばれた女性の愛は"慈愛"でした。
2012/01/04 (Wed) 08:10 |恋愛および愛 |トラックバック(0) |コメント(0)

愛を信じているから


『愛無くして生きる価値なく、愛無くして活きる力なし』


愛を信じているから
自分のすることを後悔しない。

愛を信じているから
目に見える出来事から愛を感じられる。

愛を信じているから
嫌いな人なんて居ないし嫌いになんて為らない。

愛を信じているから
好きになるにしても明るく緩やかに受け止められる。

愛を信じているから
可能性という希望にすがるのも悪くないと思う。

愛を信じているから
人を信じる事が愛に生きる事と同じと解る。

愛を信じているから
愛を受け入れるから
愛を許し認めるから

愛を
自分を
全てを

信じているから

何でもチャレンジ出来る。
前に進む事が出来る。

愛を受け入れる事が愛だと分かる。
2012/01/02 (Mon) 08:53 |恋愛および愛 |トラックバック(0) |コメント(0)

プロフィール

きゅうとす

Author:きゅうとす
KIN214
白い律動の魔法使い White Rhythmic Wizard
ドリームスペル「青い共振の嵐」の年 律動の月16日(月)

2007・7より観念浄化を始めました。
生来のマイペースで遅々として進みませんが
自分なりに浄化をしています(笑)
きっとこの先には心軽く楽しい人生があると信じて
います。

2011年TUTAYAコミュが閉鎖されるのに伴いこちらのブログに移行します。
愛、恋愛などをテーマに観念浄化ワークと絡めブログアップします。

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